『十七歳の地図』(じゅうななさいのちず)は、日本のミュージシャン、シンガーソングライターである尾崎豊のファースト・アルバムである。英題は『SEVENTEEN’S MAP』(セブンティーンズ・マップ)。
背景
小学校5年生の時に両親が一戸建てを購入した事から東京都練馬区から埼玉県朝霞市に引っ越す事となった尾崎であったが、転校先の学校に馴染めず、毎朝登校する振りをして家を出た後1時間ほどして家に帰り、実際には登校していない日々が続くようになった。
学校に行かずにいた尾崎が音楽に触れるきっかけとなったのは、兄が購入して使用されていなかったクラシック・ギターを手に取り始めた事であった。あらゆるフォークソング、シンガーソングライターの曲に興味を持っていた尾崎は、特に井上陽水の詞の世界のシチュエーションに強く惹かれていた。小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続けており、その間、井上陽水やさだまさし、イルカの曲をギターを弾きながら歌う日々が続いていた。
中学生になると尾崎は朝霞の中学校には入学せず、以前住んでいた練馬区の中学校に越境入学する事となる。旧友たちと再会した尾崎は学校に行くようになり、フォークソング・クラブに所属する事となった。小学校に行かず毎日ギターを弾いていた尾崎は、同学年の誰よりもギターも歌も上手かったためすぐに一目置かれるようになり、文化祭で演奏した事で一躍学校内で有名な存在となる。
その後、青山学院高等学校へと進学した尾崎は、平日も休日もアルバイトに明け暮れる事となり、その最中でジャケットを見ただけで何となく購入したジャクソン・ブラウンの「ランニング・オン・エンプティ」を聴いて衝撃を受ける。その影響で「町の風景」や「ダンスホール」などの曲が製作されたが誰にも公表せずにいた。
その頃、中学時代の友人と会った際に「音楽でやっていくつもりだ」と打ち明けるものの、友人からは「まだ何もやっていない」と指摘された事を受け、CBSソニー主催の「SDオーディション」、ビクター主催のオーディションにそれぞれ応募する事となる。ビクターのオーディションで2次審査まで進んだ尾崎であったが、10分近くある「町の風景」を演奏した際に審査員から「長すぎる」と指摘された事で、自分の曲を理解していないと思い、不信感を抱いた事から次の「SDオーディション」には行かず、友人の家に滞在していた。
しかし、CBSソニーのディレクターであった須藤晃、マザーエンタープライズの社長であった福田信の2人は衝撃を受け、当日尾崎がオーディションに来るのを心待ちにしていたが、一向に本人が現れないためスタッフ側から自宅へ連絡を入れ、さらに尾崎の友人の家まで電話を掛けてまでオーディションへの参加を促す事となった。
尾崎はオーディションに合格し、尾崎の担当となった須藤は月に一度尾崎と会う機会を設けた。その席で須藤は尾崎の作成したデモテープや大学ノートに綴られた歌詞に目を通していたが、須藤の望むような作品ではなかったためレコーディングに入る前に度々ミーティングが行われていた。その後、尾崎が書いてきた「十七歳の地図」の歌詞を見た須藤は「十七歳の少年そのものの言葉が息づいている歌」として感嘆し、ようやくレコーディングに取りかかる事となった。
録音
プロデューサーは須藤晃が担当した。須藤はこの当時、浜田省吾、杉真理、村下孝蔵、国安修二、五十嵐浩晃、ハイ・ファイ・セットなどのアーティストを担当していた。
実際にレコーディングが始まるまでの間に須藤と尾崎とでミーティングが何度か行われ、いくつかの曲タイトルや曲構成などが変更されている。一例として「無免で…」は「15の夜」へ、「街の風景」は長すぎるという理由で歌詞を削られ5分程度に、「セーラー服のリトルガール」は「OH MY LITTLE GIRL」、「セーラー服」は「ハイスクールRock’n’Roll」へとそれぞれ変更された。
その後、須藤は中上健次の小説『十九歳の地図』のイメージと尾崎を重ねていた事からアルバムタイトルを『十七歳の地図』と決定し、尾崎に「十七歳の地図」というタイトルの曲を製作するよう指示、尾崎が実際に製作してきた「十七歳の地図」の歌詞を見て感嘆した須藤はようやくレコーディングに取りかかる事となった。
1983年7月30日18時から、尾崎にとって初となるレコーディングが開始された。7月30日から31日にかけて「愛の消えた街」、「15の夜」、「僕が僕であるために」が録音されている。当初はリズム録りが行われており、全体のメロディーとリズムを照らし合わせるため尾崎のボーカルも録音されていたが、その時のテイクがそのまま使用されている曲も多くある。
レコーディング開始に当たり、用意されていた曲は完成品に収録されている曲以外にも「ダンスホール」、「もうおまえしか見えない」、「野良犬の道」などがあったが、須藤の判断によりこれらの曲はレコーディングされなかった。
レーコーディングも進み、終盤に差し掛かった所で須藤から「曲が足りないからバラードを1曲書いてきて」と要請された尾崎は、「I LOVE YOU」を製作する事となり、この曲が本作で最後に製作され、また最後にボーカル録りをした曲となった。
本アルバムは全ての作詞、作曲を尾崎が行っており、編曲は佐野元春のバックバンド「THE HEARTLAND」のメンバーだった西本明や、浜田省吾のサポートを長年行っている町支寛二の2名が担当している。
リリース
1983年12月1日にCBSソニーよりLP、CTの2形態でリリースされた。
初版プレスは1300枚、もしくは2,234枚。その後まもなく再プレスされて「卒業」の発売につながっていった。
初版プレスの少なさから、置かれているレコード店が少なかったため、リリース日になって尾崎自身が「朝霞の西友に自分のレコードが入っていない」とレコード会社に問い合わせをしている。
その後の再発盤を含めた累計売り上げは300万枚近くに達する。
プロモーション
マスターテープの完成からリリースまであまり時間がなく、またレコード会社側も売れる作品と認知していなかったため積極的なプロモーションは行われなかった。
また、尾崎が所属した音楽事務所であるマザーエンタープライズはライブ活動をアーティストの基本に置く方針であったため、キャンペーンや雑誌の取材、テレビ・ラジオなどのマスコミにも一切情報が提供されておらず、口コミを重視した戦略がとられていた。
須藤は音楽性だけで浸透すると考えていたため、尾崎のビジュアルに関してはほとんど表に出さない戦略がとられた。
アートワーク
アルバムジャケットの製作は田島照久が担当した。田島は「10代の男の子、十七歳の地図」という尾崎の情報を得たが要領を得ず、「SEVENTEEN’S MAP」という言葉を聞いた瞬間に、「その少年が壁から飛び降りる感じ」というインスピレーションを得て製作した。
ツアー
本作リリース後、1984年に数回のライブハウス公演を経て、12月3日の秋田市文化会館を皮切りに、「1st Live コンサート・ツアー」として21都市21公演を行っている。このツアーの内、1985年1月12日の日本青年館公演が後にビデオ『OZAKI・19』(1997年)としてリリースされた。
批評
専門評論家によるレビュー レビュー・スコア 出典 評価 文藝別冊 尾崎豊
(松井巧)肯定的 文藝別冊 尾崎豊
(和合亮一)肯定的 音楽誌が書かないJポップ批評 尾崎豊 肯定的 音楽評論家である松井巧は「メロディーにしても歌詞の言葉の選び方にしても、きわめて平易でオーソドックスであるが、平易なポップスというのは、広くメッセージを伝える手法としては正しいとも言える」と評している。。
詩人である和合亮一は「歌唱力にはめざましいものがあり、いくつものテクニックを天性として持ち得ていたのであろう」と評している。
フリーライターの河田拓也は、「いわゆる『ドンシャリ』の無機的で冷たく平板な音に、透明だけれど生々しく切実な緊張を湛えた尾崎の声が乗る時、教室と、勉強部屋と、匿名の雑踏に閉ざされて、「自分」と「社会」の間に血の通った媒介となる場を持たずに自我形成にあがいていた若者の孤独が、そこには確かに体現されていた」と評している。
引用元:Wikipedia (https://ja.wikipedia.org/wiki/十七歳の地図_(尾崎豊のアルバム))
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十七歳の地図
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